「藤城清治」
藤城清治
藤城清治氏の軌跡
東京に生まれる。慶応普通部入学。海軍で九十九里浜の海岸防備へ。人形劇を、部下の少年兵たちとも行う。戦後再び慶応へ戻り、本格的に人形劇に取り組もうと考えていた時、人形劇の本と出会う。筆者・小沢愛国氏を訪ね、その時に見せてもらったジャワの影絵人形にすっかり心を奪われ、影絵の世界へ。身の回りのあき箱や包み紙などを使って、手作りの影絵劇を子供たちに見せ始める。同じ頃、猪熊弦一郎氏に絵画を習う。黒を生かす所などモダンな作風に藤城氏が受けた影響は大きい。
ローソクの灯りの中で
人形と影絵劇団ジュヌ・パントルを結成。慶応大学経済学部卒業。テアトル系の映画会社の宣伝部に入社。アメリカ映画は映画のカット割りや画面の構図など、かなり勉強になったと話す。花森安治氏が創刊した「暮らしの手帖」で人形劇の写真を連載するよう勧められる。その3号目の打ち合わせの時に突然停電になり、ローソクの明かりの中で影絵の話が出て、影絵を連載することに。
影絵作家として
最初の影絵絵本「ぶどう酒びんのふしぎな旅」出版。この時期体をこわし、会社を辞職、影絵一筋に創作していく決心をする。朝日新聞に毎日曜日影絵を連載。何でも好きなように描いてほしいといわれ、こびとが頭に浮かんできたのだという。大阪ロイヤルホテルで影絵展を開き、以後毎年の定期開催に。一度思わぬハプニングで影絵を破られたことがあり、ショックで数日寝込んでしまう。外務省派遣文化親善大使としてアラブ等を訪問、影絵劇を上演。この時の公演は思い出深いものであったと、氏は今でも回想している。春の褒章で紫綬褒章を受ける。イタリアで開催の国際船と海の博覧会の公式ポスタ-を制作。
同年、昇仙峡影絵の森美術館完成。春の叙勲で勲四等旭日小綬章を受ける。
カエルのケロヨンはぼくのキャラクター!
知っている方も多いキャラクター「ケロヨン」
70年代にテレビで活躍したケロヨンはぼくが作ったキャラクターだ。頼まれてつくったのではない。自分の夢をテレビで実現し永遠にアイドルとして愛されるようなキャラクターをつくり出したいと思って電波料を買い、自分がスポンサーになって自主提供ではじめた。相当の意気込みだったから、午前中の最も視聴率の低い時間帯にもかかわらず視聴率は次第に上がっていった。
名前も始めはケロちゃんといっていたが、いつとはなく、失敗してもおこられてもケロッと明るく、屈託のないカエルの表情からケロヨンという愛称が生まれた。
ケロヨンブームはテレビだけに留まらず、遊園地にデパートにあらゆる商品になった。
作品集
銀河鉄道の夜(1986年)
茶畑の幻想(1994年)
夏・魚しました(1987年)
月の砂漠(1976年)
夕やけと赤とんぼ(1978)
太陽のメルヘン(1987)
線香花火(1986年)
ぼくの目は猫の目(1987年)
めがね橋(1982年)
コスモスとこびと(1986年)